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問われる自然災害観中日新聞,1997年 3月22日(依頼)

 大地を切り裂く活断層。その活断層の変位が長期間のうちに何回となく繰り返されると,やがて丘や山脈が造り上げられていく。そのさまは大自然の造形美であり,地形学者はそれに魅了されてきた。兵庫県南部地震の惨劇を経験した今,そんな暢気なことを言うのは,はばかられるが,考えてみれば現にわれわれ日本人は,噴火の恐ろしさを忘れて富士山を賛美している。噴火の際に流れ下った溶岩がせき止めて造った富士五湖の湖畔に集い,清涼な風と富士の雄姿を満喫している。地殻変動が活発な大地に暮らす日本人は,自然災害の危険性を深刻にとらえないという独特な自然災害観をもっているのかもしれない。

 しかし,一瞬にして六千人もの尊い人命を失う災害に直面し,その原因となった活断層に何とか対処したいと多くの人が願うようになった。このまま何も手を打たないままに,やがて必ずやってくる次の内陸地震に遭遇するのだけはかなわない。稀にしかおきない災害だから無視していいという,今回の大震災以前にはごく普通に聞かれた意見は,今となってはもはや聞かれなくなった。

 一九世紀まで,日本人の地震災害観はひたすら「畏怖」の一語に尽きた。そもそも全く原因不明の大地の揺れに心身ともに翻弄され,なすすべがない「無力」な状態だった。古来,石造りの建築物を築いて,これを永遠に残そうという発想に乏しかったのも,また人生や社会に「無常観」が強かったのも,地震をはじめとする自然災害に大きく影響を受けていたものと思われる。

 それが二〇世紀の後半になって様変わりした。地震学の進歩によって地震の正体が断層であることがわかり,東海地震などがどのようにして起きるかがアニメーションでも紹介されるようになった。また七〇年代後半からは地震予知計画がスタートし,地震に関する知識が普及した。これらは間違いなく大きな意義があった。しかし,一方で,地震についてみんな「知ってるつもり」になり,大地震の直前には教えてもらえるかのような,とんでもない錯覚に陥りやすくなった。また,建築技術に対する過信から,多くの人が「安全神話」を暗黙のうちに受け入れていたように思う。

 兵庫県南部地震がなぜあれほど衝撃的だったか。犠牲者の多さがその第一の要因だったことは間違いないが,「神話の崩壊」も大きかった。地震を機に改めてその恐怖を再認識した。そして地震について無知であることを専門家も含めて多くの人が痛感した。高速道路の橋脚が倒潰したのを見て,また一方では,震災の帯の中にあっても壊れなかったマンションを見て,構造物の耐震化は不可能ではないけれども,「程度問題」であることがわかった。

 いま我々は地震に対してもういちど謙虚になって,勉強し直さなくてはならないのではなかろうか。それと同時に,「地震から何を守るのか」を議論しなくてはならない。高速道路の橋脚は,「地震に備えて筋力アップ中!」の看板のもと,鉄板が巻かれ補強されている。大型構造物を耐震化することも有意義ではあるが,地震対策は,おもに経済的な理由で,やれる限度があるのも事実だ。「地震に対して何を耐震化して,何を守るべきか」といった原則論についての国民的な議論がまず必要なはずだ。行政機関から一向に議論を始める気配はない。マスコミを始め市民レベルで声を上げるしかなさそうだ。

[土曜招待席「人と自然を語る」シリーズ①]